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現代版 日高山脈開拓物語
ヤオロマップ岳の頂上稜線が札幌のツアー会社によって整地された


1732mのテント場~カムイエクウチカウシ山を従えて

 外国(中国を除く。)の山に行ったことはないが、日高山脈の稜線は静かで、世界一美しい。
稜線のテン場は狭いので、1~2人用のテントでこじんまりと行くのがベストだ。
団体登山・ツアー登山・連れていってもらうなどには不向きのところである。


北海道開拓

明治2(1869)年、北海道の開発を目的に開拓使が置かれてから140余年が過ぎたが、今でも北海道では営々と開拓が進められている。とは言っても、既に平坦な地はもとより田畑として使用が可能な山間部の裾野まで開拓し尽くされている。よって現代の開拓は「宅地開発」のためのものであり、その規模は極小であって、その場所は日高山脈の稜線に限られている(と思われる)。


日高山脈稜線上の宅地物語(1) (1967峰 編)

 2003年の晩秋、日高山脈登山の未経験者が無謀にもペテガリ岳に登るために東尾根コースに取り付いてしまった(そのときの記録)。1日目は、このコースを13時間歩いてペテガリ岳の手前、国境稜線でテントを張ったが、この間、この長大なコースにテントを張ることができる場所は、①ポンヤオロマップ岳頂上からしばらく下りたコルに2張りほど、②次の1417mのコブを越えたところに2張り、③1518mのコブの先に1張り、④1573mのコブ直下に無理すれば2張り、⑤ペテガリ岳頂上に1張りのわずか5か所であった。(「1張り」=1人用テント)。2日目は、早朝05時30分からペテガリ岳に向け登り始め、テントを撤収してテント場に戻ったのは深夜23時55分であった。辛かった。


晩秋のペテガリ岳東尾根コース 1573mで (ともかくタフなコースである。ネットの記録も少ない。)

 2004年はもっと謙虚に、伏美岳、ピパイロ岳、1967峰、戸蔦別岳、七ッ沼を経て幌尻岳まで縦走しようとした。このロングコースは天上の楽園である。テント場は少なく、それぞれのテント場(七ッ沼)は狭く1~2人用のテントで1~3張りが限度である。以下は、2004年7月15日~18日、このコースを1人用テントを担いで縦走した時の記録の一部である。

 さて,その声の主は朝方登山口を早立ちしピパイロ岳から戻ってきたという梅沢俊さんご夫妻であり,ひとしきり立ち話をする。ピパイロ岳頂上先にはテントが一張り張られていて,その人は戸蔦別岳を往復しているようだが,時間的に戻ってこられるだろうか心配だという。また,仙台のグループが入山しているということであったが,わざわざその話をしてくれた理由は後から分かった。日高の長い稜線上にわずかしかない狭いテン場に10数人もの人が入ったらどのようなことになるのか。一瞬の間の,自然の大破壊となる。


ヒダカゲンゲ

 今日の幕営地を1967mの水場のコルと決めていたが,結局予定を変更して1911m直下にして正解だったことは,翌朝に思い知らされる。梅沢さんから,「ヒダカゲンゲが素晴らしかったよ。」「ピパイロ岳の斜面にはミヤマキンバイ(ヒダカキンバイソウ)がびっしり咲いていて,ちょうどいいときだね。」などと,お花の話をうかがうが,奥様のやさしい表情といい,お二人の人柄がしのばれる。


ミヤマキンバイ

 エゾツツジの真紅の花が群落を作っているのでカメラを構えようとしているところに,北海道山岳会のロゴの入ったシャツを着た年配の男性が1967m方面から上がってきた。聞くと,北戸蔦別岳を往復してきたといい,梅沢さんが言うピパイロ岳頂上直下にテントを張っている人であった。時刻はちょうど午後4時である。鋸を携え,ザイルを身に付けている。今夜の幕営地はどこかと聞かれたので, 「1967mの水場のコルを予定している。」と言うと,コルにはすでに仙台からのツアー登山者10数人がテントを張っており,一張りはなんとかなりそうだけど,がやがやとうるさくて眠れないだろうから,手前の草付にしてはどうか。」とアドバイスをくれる。


1911mの中腹のテント場 (縦走路から少し入る)

 1967峰の手前にある1793mのピークへの登りは,腰までのハイマツに雨露がついていて,下草も濡れていることから,レインスーツを着込んで進む。1967峰のコルには仙台のツアー客が泊まっていたはずであり,この人たちも稜線を先へと進んでいるに違いないと思っていると,1793mのコブでグループの姿が見えた。聞くと,昨日は1901mまで進んで撤退したという。1901mは北戸蔦別岳の直前にあるピークであるが,この間切り立った岩場をへつり,あるいは岩場を上り下りしなければならなかったことから,失礼ながらメンバーの構成を見ると撤退を余儀なくされたのであろう。また,1967峰のコルの水場では水が採れなかったはずであるから,その要因もあると思う。


いい雰囲気

 この人たちが泊まったテント場は,この稜線上ではテントが数張り張れるわりと広い場所ではあるが,10数人が一度にテントを広げられるものではない。そのため,フウロソウやキンバイソウの咲くハイマツの周辺の草場が一面なぎ倒され,一部木も切られていて痛々しい。これらの花がなぎ倒された場所は,下山時には草が枯れて茶色になっていた。また、排泄物・ペーパーの残置が多く、その人数分の排泄物の匂いは甚だしい。


14~5人が下りてくる

 このツアーは、仙台市のアウトドア用品店「○○○○○」の主催で行われ、14~5人が参加している。そのホームページには、ツアー報告が載せられているが、この2004年の日高のツアーの記録だけが載せられていない。理由は自明である。


HPから一部引用させていただきました。

 この稜線には、これほどの人数を一度に受け入れるテント場はない。大人数の登山は時間もかかる。そうすると伏美岳~幌尻岳を往復するとなれば、山中4泊ほどになるだろうし、この会社のツアーも4泊5日のテント泊を予定していた。


1967峰と1911m間のテント場

 1967峰と1911mの間のテント場は「数張り」可能とされていたところだが、それは土が露出しているところ以外でも、万一の場合には草の上に張ったり、樹木ぎりぎりに張ったりしたとこのことを言っているのが、今(2010年)ではすっかり樹木が切り開かれ、地面(宅地)も広々となっ(開発され)た。(この上の画像)


日高山脈稜線上の宅地開発物語(2) (エサオマントッタベツ岳 編)

 2010年に、エサオマントッタベツ岳からカムイエクウチカウシ山まで縦走した。当初、コイカクシュサツナイ岳までの計画だったが、2日間雨で停滞したことから、カムエクで下りたのだった。このコースは歩く人も少なく、かつ、高山植物も少しあってお気に入りのコースであるが、エサオマントッタベツ岳からしばらく行った先のコルで、見るも無残な開削の場所を見るに至った。このコースを団体で歩いた者の所為と思われる。(以下、その見聞録

 エサオマントッタベツ岳は比較的登られることが多い山である。北東カールから札内JPの札内岳寄りの稜線に上がり、節度あるハイマツの枝の整理が行われた稜線を行く。ところが札内JPから南下し、カムイエクウチカウシ山への稜線を歩くととたんに古の踏み跡は消え、ハイマツの藪を漕いだり笹藪斜面を足を滑らせながら歩くのも、日高の山歩きの野趣の一つではある。

 自然環境保護派に属するのかどうかは知らぬところだが、日高の稜線でハイマツを踏み付けるのはどうの、踏み跡のない斜面で高山植物を蹂躙するのはどうの、ハイマツの枝の整理はどうのと他人には、器物損壊だとか国立公園法違反だとか夜郎自大なことを言いながら、沢登りと称して歩き、その結果源頭の高山植物のお花畑を縦横無尽に蹂躙していることに良心の呵責を感じないどころか、沢で流木を盛大に燃やし「木竹を損傷」している者が見受けられる・・・というのは日高の山の愛好者の中に少なからずいるところである。


1760m この手前が酷いことになっている。(次の画像)

 それは、最後に残されたあるがままの日高の山を好む者として、ものは程度だろうということなのだが、そうは言っても、この1760mのピークにおけるテント場の開削はいかがなものだろうか。一つにここに開削する合理的理由があるかということと、次に岩稜の上に乗っかった薄い土壌に長大な年月をかけて根を張ったハイマツやミヤマハンノキその他高山の植物を根こそぎ剥ぎ取ってしまったことに対しては、まことに痛々しくて残念至極である。


新規宅地造成現場
 (1760mすぐ手前が幕営用に掘削されていた)

 この開削は、打ち捨てられたハイマツの枝の様子を見ると、2010年の今年に行われたものと見られる。土壌が剥き出しの地面は昨晩の雨でぬかるんでいて、早晩、大量の土壌の流失が懸念される。このピークにあるテン場は、札内JPからの距離からしても、また風通しのいいピークにあることからも、使用される頻度は高くない。そもそもこの場所の開削にはシャベルなどの準備があってのことだろうから、思い及ばぬ意図があってのことだろう。


日高山脈稜線上の宅地開発物語(3) (ヤオロマップ岳 編)

 2012年の日高の山歩きのためにネット情報を調べていたら2011年8月19日~23日の4泊5日の1839峰の記録があった。ただ、ブログの記録のうち、この記録だけが既に削除されている


ノマドのブログを一部抜粋させていただきました
ヤオロマップ岳のコイカクよりに畑のような土壌の場所はなかったから、造成はしっかり・・・


 山にはそこが開放されていない場所である限り、誰もが自由に入り、その楽しさ・美しさ・清々しさを享受できる。山に人が入る限り、踏み付け・踏み込み、ルート表示のためのペンキの塗布(はないほうがいいが、あって助かることがままある)、一定程度の範囲内・必要最小限度内での樹竹の整理をとやかく言う必要はない。

 ただ、それが商目的のためであろうが、集団での登山であろうが、限度以上の大人数の入り込みにおけるその場限りの必要性でテント場の拡張、あらたな開削が行われたのなら、日高山脈の野趣は著しく損なわれるし、その自然的な回復は困難だ。ただ、一言付け加えるなら、記事を公開しておくことで更なる非難を恐れたのではなく、一片の呵責があったからその記録を削除したと言うのなら、まだ救いが残っているというべきか。
(2012 /1/13記)


 ヤオロマップ岳頂上の狭い稜線を、テントを張るために土石を除去し地面を均したという者が誰かと言うことにつては、このサイトでこれまで言及を避けていた。それはこの会社が、入山を規制されているアツモリソウが咲く北海道の山を縦走したということの真偽を確かめてからでもいいと思ったからだった。しかし、伝聞だけでことの真相を断ずるわけにもいかず、当事者は当然のごとく否定するであろうから、時間をかけてからとの思いであった。

 しかし、大ドッケのフクジュソウ群落地にツアー登山会社が2013年、総勢最大20人もの人数を2回に分けて送り込むことを知り、やはりツアー登山会社(あるいはガイドは予測される結果を招来することにおいて)同じようなことをするものだとの結論から、特に悪質な日高の稜線での景観破壊の当事者は誰であるか、この記事を読んで下さっている読者も知りたいとの欲求があるだろうと思う。ツアー登山会社が一片の始末書か顛末書を関係当局に提出してそれで一件落着ではないと思う。日高の山に毎年引き寄せられている者からするとその会社がどのような責任をとったのか、法人として社会に存在を認められた会社が、どのような説明を果たしたのかのということは是非知りたいものである。

 ノマド(nomad)とは、英語で「遊牧民」を意味するらしい。我が国には本物の遊牧民はいない。

 1760mも客を連れて行ったときに既存のスペースが足りなくて切り開いたのだろう。さもなくば後日の商売のために用意したのか。これだけの掘削を一登山者ができようもない。一般の登山者がスコップ1丁を容易に持ち上げられるのなら、日高の稜線を歩く価値は減衰するだろう。(2013/3/8 記)