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南三陸シーサイドパレス
2012/ 1/28


沖に棒が立っているように見える (松原であった由)


  2011年の東日本大震災で甚大な被害を受けた太平洋の海岸沿いは、1975年から1978年までの5年間の宮城県での勤務で、趣味の釣りや休暇での旅行で何度も通ったところである。また、東北の地では、勤務中の1978年に宮城県沖地震で被災したが、被災者同士が助け合う気風に接しこのような温かい心を持った人たちが住む地で生涯を心豊かに終えたいと、まだ20歳代なのに県南の亘理町に宅地を取得したところでもある。大震災後、この私の心のふるさとをいつ訪ねたらいいのか逡巡しているうちに真冬となってしまった。

 高速道を乗り継いで、南三陸道の終点から山道を越え志津川町(現南三陸町)に出ると、そこには視界を遮るものはなかった。夜明け前の国道45号線車を北上する。気仙沼線陸前小泉駅があった先の津谷川に掛かる仮設の橋を渡ると、まだ朝が明けない赤崎海岸の浜辺の先に建物が見える。

 想像もつかないその光景を間近に見ようと堤防を進む。その建物は浜辺の先、海の中にあって押し寄せる波に洗われている。
波が押し寄せると建物の土台から潮が噴き上げる。しばらく海岸に佇んで車に戻ろうとすると、壊れた堤防の先に人影が見える。廃材で周りを囲んでいる人影に声を掛ける。津波で被災したおじいさんだった。ドラム缶に廃材を入れて燃やし暖を採っている。間もなく陽が登ってくる。

 「ほら、朝日だよ。ほら朝日だよ。」
 「朝日を撮りなさいよ。」
 「あの建物は南三陸シーサイドパレスと言うんだよ。」
 「堤防の先、海の中に棒が見えるでしょ。あそこは松原だったんだ。」
 「わかめの放射能の結果を待っているんだ。」
 「大丈夫だと思うかい?」
 「1階が津波でやられちゃってね。」
 「ほら、高台の松を見てごらんよ。」
 「枯れちゃっているでしょ。あの高さまで津波が来たんだよ。」
 「またおいでよ。」

 この日、浜の気温はマイナス7度だった。ドラム缶の火が、十分すぎるほど私の体を温めてくれた。



海水が押し寄せているかつての土地


南三陸シーサイドパレス

 いろいろな見聞をしお伝えしたいことは山ほどあるが、このおじいさんとの出逢いの想い出だけを記することとし、その他のことは割愛することとする。ただ一言、この大震災が神戸淡路大震災と同様政権が交代したときに起き、危機における迅速かつ的確・適切な対応ができなかったことは、誠に不幸なことだったということは言わざるを得ない。


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