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大血川〜酉谷山避難小屋を往復 (2015)
2015/ 11/28〜29


酉谷山避難小屋


 11月28日()〜29日() 

 歩き足りないがロングコースは無理、しかし、日帰り登山はいや。そんなことで、先週の矢岳〜酉谷山避難小屋〜タワ尾根に続き、今回も大血川から酉谷山避難小屋を目指す。天気予報はいい。しかし、それが土日となると酉谷山避難小屋にどのような作用を及ぼすのか。一抹の不安を抱え、いざ秩父へ!


今回は不要なところに付けられている赤テープが随分と整理されていた

 小屋ノートに、このルートは通行禁止と注意されたとの書き込みがあったのをすっかり忘れ、林道に向かって歩くと、そんな張り紙があった。現在は土日は全面的に禁止、入山は許可を得てということのようだ。橋梁の工事が行われており、あと3か所の工事が残っているが、手が付けられていない2か所にう回路はないし、沢に入ってもダメと工事現場付近には注意書きがあるから、当面はここを歩かないことにしよう。


1人分の往復の足跡がある

 体が運動を欲しているからと林道のドン詰まりまでは快調に歩いたが、その先から始まる急登で即座に筋肉が「つらいよ〜」と泣いている。それもそうだろう。先週の矢岳〜酉谷山避難小屋の7時間のアップダウンが本当にきつかった。そうは言っても、今日は天気のいい土曜日。いつものようにツェルトは持ってきたが、銀マットをザックに入れるのを失念してしまった。万一小屋に入れないときは背中が寒いだろうなぁ。とにかく急ごう。


ようやく酉谷山へ

 大血川と熊倉山を分ける分岐にどうにか出ると、北斜面に雪が残っている。前回、小黒への登路にあった、ビロ〜ンとだらしなく垂らして括りつけられていた赤テープがきれいに取り去られ、打ち捨てられている。これが醜いものだと思う同じ感性の人がいたのだとうれしく思ったが、征伐したテープを持ち去っていただけていれば、好感度はグゥ〜ンとアップしていたのに惜しい。

 大血川峠から酉谷山へ登りつつ何気なく後ろを見たら、単独氏が追ってくる。いつもならフレンドリーにお話でもしてもいいのだが、今日はそういうわけにはいかない。単独氏との差をもう少し維持しつつ、酉谷山の頂上に着いたら立ち止まることなく一気に小屋まで行くのが、今日一番のプライオリティだ。

 酉谷山から雪が残った道をトントンと下りて行くと、向こうから年配氏が空身で登ってくる。
  「こんにちは。小屋は何人いましたか。」
  「私を入れて4人だよ。」

 それは一安心。しかし、ここで気を緩めてはいけない。危機管理というものはそんなことではいけない。年配氏が小屋からここまで10分かかる、ここから小屋まであと5分かかるとすると、その15分の間に一杯水から、タワ尾根から、そして雲取山から酉谷山避難小屋に向かってくる人が到着することもないではない。


朝のタワ尾根

 小屋が見えた。長沢背稜から小屋に向かって下りると、小屋の外に男性2人がいる。あ〜、このシチュエーションは吉祥を意味するものではない。小屋の戸を開けると、それぞれ単独の男性が板の間に場所を得ている。つまり、酉谷山に登って行った人を加えると、4人ではなくすでに5名様が小屋の人となっていたのだった。酉谷山に登っていた人は奥に陣取り、その手前に結構年配の男性が少し間を開けてエアーマットを敷いて境界線を設けていた。
 「すいませんが、入らせていただけませんでしょうか。」
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

 酉谷山へ登っている人が帰着するのを待ってお願いすることにする。なにせ、(小屋の)広めの銀マットで領地を確保しているから、ネゴシエーションの余地はあるだろう。ほどなくしてその人が戻ってきたので、お二人に譲っていただけたので、コーヒーを淹れて持ってきた文庫本(ドナルド・キーン著「果てしなく美しい日本」を読み耽る。この本は1958年(昭和33年)企画されたアメリカ人へ(特に)戦後日本の現状を比較的好意的に紹介した本である。


2015/11/29の水場

 「果てしなく美しい日本」を読み続けるには少し暗くなってきたので、水場で冷やしていたビールと日本酒を飲ながら周りの人と山の話に花を咲かせる。酉谷山で追随してきた人が小屋に入るが板の間は満杯なのでコンクリートの土間に場所をとる。次いでまた単独男性が小屋に入り入り口の窓辺の土間に住みかを見つける。
 「もう、今日はこのぐらいでしょうか。」
 「そう言う具合になればいいでしょうが、午後7時ぐらいまでは人が来ると思ったほうがいいでしょうね。」
などと話していた。再び山の話しで盛り上がり、外も暗くなってきたので夕飯の準備をする。


酉谷山の頂上から

 ヘッドランプを付けなければならないほど暗くなってから、ヘッドランプが複数小屋に向かってくる。ガラッと戸が開き2人が入ってきて背後に2人いる。
 「入れますか〜。」
 「すでに土間に2人いますが、お疲れさ〜ん。」
 土間に置かれたザックを寄せてスペースを作るとあと1人、いやもう1人は土間で寝られそうだ。
 「あとはテントかツェルトになっちゃうね。」
 「いや、持ってないんですよ。」
と言って、動ずることはない。
 「あれれ、土曜日の、こんなに小さな小屋に来るのに何も準備してこなかったの?」 
 この4人は、年のころ35歳ほど。うち女1人。全員がすっきりした体つきをしている。「古里から来た。」というから川苔山を越してきたのだろう。


酉谷山南斜面

 あまりにも平然とした態度である。見かねて、板の間にシュラフを広げていた2人組の男性、先ほどまでウィスキーを楽しくやっていた単独氏、土間寝ていた単独氏が外に出て行ってそれぞれテントやツェルトを建てる。するとこの4人は食材を広げて鍋の用意をする。それを見て私はこう思った。
 生うどんを持ってくるのならツェルトを持ってこい(怒)
 彼らはこう言った。
 「みなさん明日は何時ですか。私たちは3時に起きます。」
 「誰が掃除するんだ。」
 「・・・・・。」
 返事はなかった。


酉谷山北斜面

 今夜ほど酉谷山避難小屋ほど「美しい」という言葉がそらぞらしい夜はこれまでなかった。キーン氏が今もって恋心を寄せ良き時代の日本のシーンが残っているとすると、黙って夕食後のアルコールをやめ、すっかり温まったシュラフを持って外に出ていった人たちの姿だった。

 今夜の気温は、ヤマテンの予報では−7℃。小屋の棚にあった毛布を3つのテントとツェルトに配った。 

 翌朝3時、この4人は宣言通り起きて、ヘッドランプで照らし食事を作り、ガサゴソと身支度をする。その間約1時間30分。身のこなしがネズミ小僧のようにちょろちょろと速そうでいて実体が伴っていない。トレラン姿、トレランで鍛えた見かけはいいが実の姿は、説明も理解を求めることもできない「果てしなく美しくない闖入者」たちであった。


遭難事故が続く魔境小黒

 異次元の人たちが去って、年配者も起き出し早出して行った。外に寝た人もいつまでも寝ていられなかったのだろう。4人中3人は、夜が明けたときにはもういなかった。最後まで残ったのはこの小屋を掃除していきたいという人だった。この小屋が大好きで、どうしても掃除をして行きたい、任せてほしいというようなことだったので、小屋を後にする。長沢背稜の分岐から酉谷山に登りかけると、薄手のウールとの2枚重ねの手袋では手が冷たくて我慢できず、少しゆとりのある残雪期用の手袋に変えると血の巡りがよくなって温かくなった。 


熊倉山への分岐

 心地よい陽が射し込むブナ林を抜け、崩落地を避けて急斜面を下りてから元に復し、ロープが張られている急斜面を下りようとしたら、下から人が単独氏が上がってくる。少し話をして別れるが、4人組とは違って人を見るのに冷たさのない、山で出会ってホッとさせてくれる感じの人だった。


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