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大ドッケのフクジュソウ(福寿草)群落地への大規模な人数での登山の是非について (2013)


 新ハイキングが団体で大ドッケのフクジュソウ(福寿草)群落地への登山を計画しているが、新ハイキングの本部やリーダー会はこのような自然破壊的計画を黙認しているのだろうか?このような団体での登山を放置すると、植生に壊滅的な打撃を受けることは明らかで危惧しているという話題に接した。このサイトの管理人である老少年が、アルプスという冠を社名にしているツアー登山会社の、総勢最大20人にも及ぶツアー企画に危機感を持ち、そのことについて、「ツアー登山が「秘密の花園」大ドッケのフクジュソウ(福寿草)群落地に入ってくる」とのコラムを書いた。

 同じ思いを持っている人がいることに、まだ日本の社会は捨てたものではないとの思いだ。ツアー登山会社催行のツアー登山か新ハイキングが計画の登山かと言うだけで、中身、実体は同じである。すなわち、自分では登ることが難しいところを誰かに引き連れていってもらって集団で登る点においては、それが金を取るガイドかクラブのリーダーかと言うだけで、どちらも20〜30人の徒党であるということにおいては五十歩百歩であることは明らかだ。

 そして、小さなグループでも団体でも同じと、大人数で歩いたときの自然に対する弊害がどのようなものかを認識しようともしない両者に共通するものはなんなのだろうか。外国旅行もツアー頼み、秘密の花園もガイド登山頼み、リーダー頼み。また、羊が羊飼いに連れられた集団や気の合った集団の傍若無人な振る舞いや嫌なところも一杯見てきた。そんなことから大ドッケのフクジュソウのこのことを取り上げた。


 新ハイキングのサイトを見ると、Aさんの問題提起に対して新ハイキングの計画者は、概略次のとおり述べている。

  「この群落のことを知ったのは、ネットや印刷物等の多方面から情報が得られたため。このように、すでに内緒にしておくと言うことが通用しない状況になっている。
当群落についても存在や価値を認め、具体的な保護施策を考える時期に来ているのではないかと思う。環境アセスメントを通じて、自然保護行政にかかわった経験があるが、最も効果的な保護施策は「社会による監視の目を強める」ということ。自然に理解のある人が沢山訪れるようになれば、悪いこともできなくなる。三毳山や角田山がよい成功例だ。植物学者等によれば、実際盗掘被害にあう確率は、きちんとした保護施策が取られていない無名の繁殖地の方がずっと多い。

 次に、少人数ならいいが新ハイの山行はいけないということに関しては、根拠に乏しいのではないのか。新ハイの会員は花好きが多く、自然保護に反する行為に関しては、厳しい方が多いと思う。むしろ、気心の知れた数人だとちょっとぐらいという甘えが生じ、群生地に踏み込んで写真を撮ったという話を聞いたことがある。

 要は、人数ではなく、個人や団体の資質ではないかと思う。自然保護に理解のある多くの者がこの群落を見て、その価値を認めることは、今後の保護に関して、良い結果になると確信している。意見は、自然に対する純粋な愛情から発せられたものと思うが、この場に及んで存在を隠そうとする方法は、かえって、効果的な保護施策を遅らせることになると思うが、いかがか。

 今回の福寿草に関しては、私も自分の目で確認し、具体的な対応策を提案したいと思っている。愛していると言っているだけでは、自然は守れない。具体的な措置こそ必要だ。一会員が福寿草群落を守りたいと思った動機は、その素晴らしさに感動したからだろう。そういった感動を得る機会を、一部の会員の利益と言い切ってしまうのはあまりにも了見が狭いように思う。その素晴らしさを味わい護るために、具体的に行動できる人を増やすことが最も有効であることは多くの事例で実証されている。


 これについてAさんは次のように意見を述べている。

小生の危惧は唯一つ、「オーバーユースによる現地の自然破壊」である。すなはち、「多人数による一時的な訪問による地表面の踏みつけ」です。過去に山岳雑誌、ブログなどにも紹介されているので、この場所を隠すつもりはない。しかし、多くの方はブログでも現地への行き方などは明示せず、オーバーユースを避けるべく配慮している。また、角田山のように山全体に花が広がっている所と大ドッケは比べようもない。自然保護施策を云々する以前に、オーバーユースを避けるのが第一だと思う。新ハイに続いて、他のハイキングクラブや商業的ツアーが、多人数を引き連れて「福寿草を見に行こう!」となれば、どのような事態になるか言うまでもない。もちろん、地主ではないので行くと言われるのを断固阻止するつもりはないが、新ハイの自然環境保全に対する姿勢や優先度が知りたくて投稿した。


 新ハイの計画者は次のように応じている。

 オーバーユースの問題については、海外の事例を中心に調査研究したことがあるのでよく分かる。流域単位の保全については、排泄物と浄化能力の関係から、人数制限は有効な手段だ。しかし、群落のような局所的な保全については、オーバーユースを論じても意味がないことは、明らかにされている。影響するのは行動そのものであり、保全に有効な手段は、行動の規制・監視とされている。監視員(ガイド)の同行を義務付けるとかです。一会員が「多人数による地表面の踏みつけ」を問題視されているが、「小人数ならよいか」と問われたらどうだろうか?もちろん、少人数でも群落に踏み込んだらだ。このことを踏まえるなら、単に人数のみでかたや自然を愛する集団、かたや自然破壊者とする論拠は無くなると思う。どちらになるかは、人数ではなく行動そのものだ。

 しかしながら、一会員の心情にも察するところがあるで、中止や催行の内容変更も含めて検討したいと思う。ただし、あくまで話し合いの場を持った上で方針案を出したい。名前と連絡先を教えてほしい。山行の催行までには、多くの方人の世話があり変更や中止についても、多大な労力を必要とするし納得も必要である。一会員にも、書いたことに対する相応の責任を果たして頂きたいと思う。お互い誠意をもって対応し、良い結果になるよう努力しよう。


 このことについて、次のように述べている人がおられた。

新ハイキングクラブは、会員数が大変多いので、全ての方が本当に自然保護を考えているのかどうかというのは表面的には分からないのではないかと思う。私自身もかなりの山の好きな方たち、・自然愛好家・植物愛好家の方たちと山に行くが、残念ながら一緒に山行を共にして疑問に思うところが少なくない。お目当ての植物の写真を撮るために足元の植物には全く注意を払わないなどはよく見かける。

 フクジュソウ群落地については、他のところで公表されているし詳しいレポートも出ているかと思う。だから行きたいと思うのであれば行ける場所であり、もはや秘密とは言えないだろう。しかしながら、やはり、団体で行くというのは一個人としては疑問に思う。保護を考えるのであれば、他の方法もある。本当に行きたいのであれば他人が立てた計画に乗るのではなく、個人で調べて少人数または個人でいけばよいのではないだろうか。もし、催行されるのならば少人数で、自然保護に関して参加者にさまざまな理解を求め注意点を説明してから行けばよいと思う。


 大ドッケに集団で登山することは、都内の登山ツアー会社が2013年4月7日と10日に催行するものであることを知った。それは新ハイキングの問題が提起された日より後だった。今回紹介したような個人の方の、常識的で思慮に富んだ考え方を拝見すると、自然保護を喧伝する人・団体や学者、自然保護に関わる行政事務に従事(関与)したと言う者よりよほど冷静で理性的な考え方を持っていると感じ入った。

 A氏は、大ドッケのフクジュソウ群宅地について、盗掘には言及していないが、そのことについては大勢での踏み付けの問題と同等の懸念があるかも知れない。一方、新ハイ氏は「保護政策を執るべき時期に来ている。」と言って、「監視の目を強める。」とも言っている。氏は「私も自分の目で確認し、具体的な対応策を提案したいと思っている」と言っているとおり、この地に実際に足を運んだことはないか、あったとしても実情をつぶさに把握してはいないのではないだろうか。そして、氏が言う「保護政策を執る・・」と言う言葉の中に、誰がという主体が見えてこない。政策と言うのなら国か、県か、市かだろうが、このフクジュソウ自生地の権利関係も分からないでそのように言うから浮ついた議論に見えることとなる。さらに、「監視の目を強める」と言うに及んではよほどの権限と実行力を有していなければ浅薄な発言と取られても致し方ない。ここは個人が所有の山林であることをまず理解しないとならない。

 


 いずれにしても、山は静かに登り自然の花たちがいつまでも今日の姿であってほしいと願うのである。一つ象徴的な話がある。北海道の日高の山を歩いたとき、稜線のこれまであったテント場の手前がハイマツや高山植物を根こそぎ掘り起こして、あらたなスペースが作られていた。

 日高の稜線にツアー登山が入ったり、グループであっても2張りものテントを設営できるような場所は、ヤオロの窓以外にはないと言っていい。しかし、仙台の登山用品店が催行したツアー登山は一度に多くの「客」を引導し、邪魔なハイマツやナナカマド、ミヤマハンノキなどを切り払い、周りの高山植物を踏み付け何基ものテントを張り、その分の人数の大便とティシュペーパーを晒したままという惨状を繰り広げていた。

 また、1839峰が人気になると、その前衛宿営地となるヤオロマップ岳頂上稜線の岩や石を破砕し土を均してテントを張る場所を広げた札幌市のツアー登山会社NOMADのように、日高の山に通暁しているというガイドの独善的な意識と集団を組むということで強いものに従わざるを得ないという「客」の立場が何の制止や諫言も出来ず、稀に見る行為を繰り広げたと言ったこともある。

 登山と言う行為は、ソロであろうが少人数であろうが少なからず自然に負荷をかけるものであるが、自分たちがそのことを認識しているかいないかによって、程度を軽減できるのではないだろうか。それを「政策」だとか「管理強化」などとよそ事のように言っていては、集団を率いるには不足していると言わざるを得ない。

 日高山脈の稜線を歩くと言うことは、高山植物を踏み付けながら歩くと言うことである。そんな場面を描写すると
 「ハイマツの海原を避けてわずかな踏み跡を稜線を十勝側に乗っ越すと例外なくお花畑が出てくる。チシマキンバイソウだろうか、それともヒダカキンバイソウだろうか、踏み跡を覆っている。1か所だけにミヤマアズマギクが朝のひかりを浴びている。エゾミヤマクワガタが可憐な花を咲かせている。エゾキスミレも結構な広がりをもって咲いていて、エゾノハクサンイチゲやエゾツツジはとどまることを知らない。イワブクロは踏まないようにして歩くのは困難なほど足下に繁茂している。延々とひとり日高山脈の花園を独占して歩く。
というようなことになる。

 概略そのようなことをホームページに記録として載せたら、北海道山メーリングリスト(HYML)のメンバーから、語調は丁寧ながら抗議めいた連絡があった。「何があっても踏んづけちゃならない。」「韓国での植生の保護は・・・」と。しかし、そのようなことを危惧する者は現実を知らない。そこは昔は立派な登山道が付けられていたが縦走する者もいなくなって、登山道は高山植物かハイマツに覆われてしまっている。そんな秘境も、1〜2泊で行けるところはツアーとzンが入り込んで、テント場の拡張が顕著になってきている。

 なぜ大ドッケが大人数での登山がふさわしくないかといえば、群落地を目指しフクジュソウを見るのが目的の主体のツアーや多勢であれば、群落地に立ち入ることとなって写真を撮る者も多いだろうし、滞留時間も長くなるだろうし、腰を下ろして休憩もするだろうから、その結果として回復が困難な踏み付けにより裸地の拡大が懸念されるからなのだ、というようなことが分からないでは、困ったものだ。

 きれいな高嶺の花をたくさんの人に見てもらいたい、自分が苦労して探し当てた希少なアツモリソウやヤマシャクヤクの美しい花を同好の士にも見ていただきたい。しかし、そのような好意・善意は、相手が善男善女であっても通じないことは別の高山植物で経験済みである。どうしても一歩、さらに一歩前に進んでしまうのだ。無意識にでも。 



夢に描いていたあの鞍部にあるスペースまではまだあと数時間歩かなければならないだろう。


日本のどこにもないこの別天地にテントを張るためにその一念で12時間も歩いた。

 このテント場の周りもいつかはツアー登山で踏み付けられ、スコップで広げられてしまうのだろう。山に金銭が入る様になると、とどまることを知らなくなる。この稜線を単独で3回縦走したが、今は気力も体力も枯渇してしまった。苦しい縦走だったが今となってはいい思い出ばかりだ。草花が発するむせ返るような芳香に包まれて縦走を繰り広げる贅沢はここが一番だ。大ドッケもいつまでも黄色い絨毯が広がる夢の別天地であってほしい。

 あるとき、大ドッケから下りて集落を通るとご夫婦が庭先にいらっしゃる。
 「こんにちは。朝、庭先のお花を見させていただきました。」とあいさつする。
 「フクジュソウはどうでした?」と聞かれるので、「終わりかけているのも多かったのですが、素晴らしい群落が広がり結構見ることができました。」とデジカメに納めたフクジュソウの花の画像を見てもらう。
 「今年ここを4回5回も登った人がいるというんですよ。そのホームページを見て長野から来たという人もいました。道の整備もというようなことも考えられるが、ここに来る皆さんはそのようなことは必要ないと言いますね。」
 「実は、たぶんそれは私で、今日で6回目なんです。」
 「そうだったの。今日の様子は今晩アップするんだね。」 とおっしゃっていた。

 現代版 日高山脈開拓物語 「ヤオロマップ岳の頂上稜線が札幌のツアー会社によって整地されてしまった」


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